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2013年8月18日日曜日

NHKスペシャル「自衛隊と憲法 日米の攻防」 文字起こし



先月、被災地福島で自衛官の任命式が行われました。

隊員24万人、日本を防衛する自衛隊、

入隊した自衛官に義務付けられているのが宣誓です


 
宣誓 
 
私はわが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、
 
日本国憲法及び法令を遵守し、
 
一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、
 
人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、
 
強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、
 
事に臨んでは危険を顧みず、身を持って責任の完遂に務め、
 
もって国民の負託にこたえることを誓います



発足以来、専守防衛に徹してきた自衛隊、

戦争放棄を謳った日本国憲法の枠のなかで運用されてきました 

この20年PKO、インド洋での給油、

そしてイラクへの派遣、海外へと活動の場を広げています


今、政府は同盟国などが攻撃を受けた場合、

実力をもって阻止する集団的自衛権の行使について

憲法解釈の見直しを検討する考えを示しています


さらに憲法9条を改正するのか

自衛隊を軍にするのかどうかという議論も行われています

自衛隊の任務が拡大した背景に何があったのか

今回私たちは、

それを知る手がかりとなる機密資料を入手しました

そこから浮かび上がるのは

この20年繰り返されてきた同盟国アメリカからの要求でした



ジョージ・ブッシュ大統領(1990年)
日本の軍事支援は私たちの仲間に完全に参加したというシグナルとなる
 
 
アマコスト米駐日大使(1991年)
アメリカの国益のためには
国際社会から孤立するのではないかという日本側の不安を利用するべきだ
 
 
ウィズナー国防次官(1993年)
日本周辺だけでなくさらに広い地域でアメリカ軍の活動を自衛隊に支援させる



自衛隊と憲法

私たちはどのような道を歩んできたのか

そして何を選択していくのか

日本とアメリカ知られざる攻防です



(社会部デスク小貫武)
間もなく終戦から68年を迎えます

先の大戦では日本だけでも310万もの命が失われました

その翌年に交付された日本国憲法

その第9条には

「国権の発動たる戦争と、

武力による威嚇または武力の行使は、

国際紛争を解決する手段としては、

永久にこれを放棄する」

と定められています


私はこの十数年、防衛省、自衛隊を取材してきましたが

憲法の枠の中でどれだけ活動できるのか

同盟国アメリカの求めにどう応じるのかが焦点となってきました

そして今議論されているのが集団的自衛権の行使です

集団的自衛権とは同盟国などへの攻撃を

自分の国が攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止することです

自衛の範囲を越えるとしてこれまで憲法解釈上許されないとされてきました

日米同盟を維持し、周辺国への脅威に備えるためにもこれを容認すべきだという意見があります

一方で海外での武力行使に道を開くもので一線を越えているという意見もあります


この集団的自衛権の行使を認めるのか認めないのか

そこからさらに踏み込んで憲法第9条を変えるのか変えないのか

私たちはまさに今日本の在り方そのものを考える重大な局面に立っていると言えます

NHKはこの20年に注目して取材を進めました

この前の東西冷戦が続いている時期は大国同士の均衡が保たれ

自衛隊が海外で活動することは求められてきませんでした

しかしこの20年、政府は憲法解釈を重ね

自衛隊の海外での活動の幅を大きく広げたのです



現在の議論につながるこの間に何があったかを知ることが

未来を考える上で重要だと私たちは考えたのです




1.湾岸戦争 海部首相とブッシュ大統領


まずは1990年イラクによるクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争です

日本は自衛隊を派遣せず、経済的支援のみを行いました

このとき水面下で行われていたアメリカから日本への働きかけ

自衛隊と憲法を巡る日米の攻防の始まりでした


日米の安全保障に関する機密文書が

請求からおよそ10年を経て去年アメリカで開示されました

アメリカの公文書の分析をしているシンクタンクです


国務省や国防総省などが長年機密指定を解除しなかった1000点近くの資料

その中に湾岸戦争を巡る当時のアメリカ大統領と日本の総理大臣の電話会談の記録がありました

その公が明らかになるのは初めてです



ブッシュ大統領 俊樹、元気ですか。
 
海部首相 元気ですよ、ありがとうございます。あなたは元気ですか。
 
ブッシュ大統領 電話をしたのは、あなたと私が深く懸念していたペルシャ湾の状況について話をしたかったからです。



電話会談を行っていたのはジョージ・ブッシュ大統領と海部俊樹総理大臣

就任から1年、海部首相は最大の外交課題に直面していました

この電話の前日、クウェートにサダム・フセイン率いるイラク軍が侵攻、

ブッシュ大統領はイラクを抑えこむため日本の協力が必要だと打診していました



ブッシュ大統領 私は昨日、サッチャー首相と会い、コール首相とミッテラン大統領とは電話で数分前に話し、イラクの行動を覆させることで一致しました。日本とアメリカがひとつになることが非常に重要です。ともに取り組むことを要請します。
 


この電話がその後も続くアメリカから日本への働きかけの出発点でした


1990年、世界の安全保障を巡る環境は大きく変化していました

前の年、ドイツのベルリンの壁が崩壊、東西冷戦が集結します

代わりに世界各地で始まった紛争

アメリカは冷戦後の新しい秩序づくりの主導権を握ろうとしていました


ジョージ・ブッシュ大統領
イラクのクウェート侵攻は暗黒の時代に引き戻す行為だ



アメリカは各国に呼びかけて多国籍軍の編成に取り掛かります

最初の電話から10日後、ブッシュ大統領は改めて軍事的な支援を要請

このとき日本の憲法にかかわる問題についても言及していたことが分かりました



ブッシュ大統領 イギリス、フランス、オランダ、そしてオーストラリアが海軍の派遣に合意してくれました。ぜひ日本にも経済面だけでなく軍事面でもできる限りの支援をお願いしたいと思っています。日本は第二次世界大戦後歩んできた道のりを考えると、軍事面での支援が時代を画する出来事になると承知しています。しかし、日本が軍事的な一歩を踏み出せば私たちの仲間に完全に参加したというシグナルを送ることになります。


これに対し海部総理は憲法の理念から多国籍軍への参加はできないと伝えていました。


海部首相 あなたが触れられた軍事面の支援に関してですが憲法上の制約、そして国会の議決により軍事活動にわれわれが直接的に参加することは考えられません。多国籍軍に参加することはできないのです。


アメリカから軍事支援を求められた元総理大臣の海部俊樹さんです

今回開示された電話会談の記録を見てもらいました

海部さんは当時の緊迫したやりとりを記憶していました



海部 厳しいよね、これは。ここもやってる、ここもやってる、ここもやってる、君んとこだけじゃないかというようなニュアンスでしょう。



海部さんは同盟国アメリカの求めとはいえ

憲法9条に抵触する命令を自衛隊には出せないと考えていたといいます

憲法9条では一項で戦争を放棄し、二項で交戦権を認めないとしています


 
海部 9条二項のただし書きでは「国の交戦権はこれを認めない」と、最後のダメ押しまでしていますから。だから自衛隊が出て行けと言うことはできない。政治家がまずこれを守らなきゃならんと。身をもって守っていかなければ、国家の最高規範だからそれが崩れたら民主主義ちゅうのとか議会制民主主義ちゅうのはどうなっちゃうんだと。



日米首脳による自衛隊と憲法を巡る攻防

アメリカ側は湾岸危機を自衛隊の運用を変える絶好の機会と捉えていました

今回私たちが入手した国務省の機密資料の中にその思惑が記されていました


 湾岸危機は日本が自衛以外の軍事的役割を一切果たさずに済まされるのかということを問うている。それは日本の社会にとって軍事力とは何かという戦後直視されてこなかった根本的な問題提起である。
 アメリカの国益のためには国際社会から孤立するのではないかという日本側の不安を利用するべきである。そうすれば日本政府から軍事的な支援を引き出せる可能性がある。


これを記したのは当時の駐日大使のマイケル・アマコスト氏

日本の政界に人脈を築き、強い影響力を持っていた人物です

現在、大学で国際政治を教えているアマコスト氏が取材に応じました

アマコスト氏は海部総理が一度断った後も

政府関係者を訪ね自衛隊派遣を促し続けたといいます



アマコスト 当時、私たちは石油を守るために数十万人の若者を地球の裏側の戦争に派遣しました。日本にとっても絶好の転換点でした。新しい時代に即して同盟の形を変えるお膳立てが整っていたのです。安全な場所だけに行って安全なことだけをして、簡単な仕事だけで済むと思うのは間違いです。



アメリカから繰り返し要請を受ける中

海部さんの念頭にあったのは先の大戦だったといいます

自らの戦争体験から自衛隊の運用は慎重であるべきだと考えていました



海部 僕らも戦争中に学徒動員でいろいろ経験したし、雨と降りくる焼夷弾の下におったこともありますから戦争の惨禍というのは身をもって体験してますから。二度と、またさせてはならないから、それを抑えていくのがある意味では政治の責任でもありますよ。



判断を迫られた海部さん、

大きな影響力を持っていた官房長官の言葉を支えにしていたといいます



海部 後藤田さんが言ったことだもん。「それは君、蟻の一穴論だよ」と。で、俺が「蟻の一穴論てなんだ」って聞いたら堤防の例を出されて「蟻が通る蟻通ちゅうのはだんだん太くなる、そこへ今度は蟻じゃなく水が来るようになると川の水で堤防は破壊されてしまう。堤防が破壊されると水害が起こって人命が危なくなる。だから、それから気をつけなきゃならんのだ」と。


最初の電話から2カ月後、1990年9月29日、

海部総理はブッシュ大統領との首脳会談に臨みます

今回見つかった資料でその詳細が明らかになりました

メディアによる撮影の後、

海部総理は戦後日本が歩んできた道のりと憲法の理念を語っていました



部首相 日本人は戦後45年間、アメリカによってもたらされている平和を享受してきました。
 一方で日本人は第二次世界大戦中に世界に極めて深刻な問題を引き起こしたため、いかなる軍事活動にも関与しないことを決めました。そもそもそれがアメリカがつくった憲法の枠組みなのです、ジョージ。そして日本の安定がアジアの安定に貢献しているのも真実です。
 現在われわれが検討している法案では軍事支援ではなく非軍事支援に限定したいと思います。



これに対し

ブッシュ大統領は日本の立場に理解を示した上で

それに代わる速やかな経済支援を求めていました


自衛隊の派遣を求め続けていたアマコスト米駐日大使、

アメリカへ送った報告書に

日本の憲法の壁を乗り越えるのは容易では無いと記していました



アマコスト米駐日大使(1991年3月)
世論調査によると日本の市民の間では多国籍軍の支持率は上がっているものの、平和憲法や海外での軍事的活動には参加しないことを改めて肯定する声も非常に多かった。日本の市民の反戦感情と軍隊に対する不信感は依然として根強い。
自衛隊を海外に派遣すること、まだその機は熟していない。



湾岸戦争への自衛隊の派遣を断った日本は

1兆円を超える経済的支援を行います

しかし、それは小切手外交と非難を浴びる結果となっていくのです





  2.PKO協力法


憲法の理念から自衛隊を湾岸戦争に派遣しなかった日本

一方で小切手外交との非難を浴び

自ら自衛隊の海外派遣を模索していきます


湾岸戦争の後、ペルシャ湾に掃海艇を派遣したのに続き、

国を二分する大きな議論になったのが国連のPKO、平和維持活動への参加でした


憲法の枠組みの中でどこまで活動できるのか

武器の使用はどこまで許されるのか

検討を重ね、自衛隊は初めて外国で活動することになったのです

国際社会からの孤立を恐れた90年代の日本、

その動向をアメリカは注視していました


湾岸戦争の後、自衛隊を国際貢献のために活用すべきと主張した外交官がいます

当時外務省の事務次官を務めていた栗山尚一さんです

栗山さんは今回、

海部総理に自衛隊のPKO派遣を進言したことを明らかにしました



栗山 湾岸戦争が終わりましたときにね、私は海部総理のとこに日本の対湾岸戦争政策を総括するっちゅうことで官邸に1人で伺いましてね。一国平和主義でこう小さく立てこもってるのは、そりゃ日本が小さいときは良かったでしょう、しかしこれだけ日本が大きくなったときに同じように小さくなって他のことは知りませんと、日本自身が戦争に巻き込まれなければいいんですという立場はね、やっぱりとれないでしょうと。



PKOは原則として紛争が停止した状態で行われます

この条件ならば自衛隊の海外派遣を

世論や近隣諸国も納得すると栗山さんは考えたといいます



栗山 日本が軍国主義化するというようなことを仮に言い出したとすると、国内でもそうだそうだという人も出てくる。そうなってしまうとね、これは動きがとれないことになって外交としては行き詰まっちゃうんですね。やっぱり国連のお墨付きというものがあるという状況が必要だと思うんですね。



PKOへの参加に向けて本格的な検討を始めた日本

今回入手した国務省の機密文書から

アメリカ側が強い関心を寄せていたことが分かりました



 日本はPKOへの参加で小切手外交から卒業し、国際問題に対して一歩進んだ役割を果たせるようになると考えている。

 われわれの関心は日本がPKOにより柔軟に参加できる条件をつくれるかどうかにある



自衛隊を海外派遣するためのPKO協力法

他国の領土での活動が侵略につながるとして各地で反対運動が行われました


PKO協力法は1年近くの審議を経て1992年6月に成立

憲法に抵触しないよう派遣部隊の武器の使用は制限されました


PKO協力法をめぐって政府内でどのような議論が交わされたのか

法案を作成したのは内閣官房と外務省、防衛庁の官僚たち

その議論の詳細を記した極秘文書が残されていました

防衛庁の幹部が作成した意見書です

武器の使用を広く認めるべきだという議論があったことが分かってきました



 PKO法案は自衛隊の能力、経験等を十分活用し、いやしくも自衛隊の士気を損なうことのないよう配慮したものでなければならない
 
 武器の範囲は国連がその時々に定め、許容する武器は装備できることが基本である。

 わが国の隊員のみが各国の装備より劣位のもので参加させることはとうてい容認できない。



これに対し武器の使用を制限すべきという立場だったのが内閣法制局でした

内閣法制局は政府が法案や政令を作成する際、

憲法や法律と矛盾していないか審査する唯一の機関です


当時内閣法制局で憲法にかかわる

審査の責任者を務め、後に長官となる大森政輔さんが取材に応じました

武器の使用を広く認めると紛争にまで発展する恐れがあると危惧したといいます



大森 憲法というのは国政のやれる枠なんで、それをはみ出しては駄目なんだと。だから、ある意味では政府の行為、あるいは国家の行為の制約なんだ。
 いったん武器の使用を始めると、もう停戦自体が完全に破れて、再び停戦前の紛争状態に戻ってしまう、そうなるとどこまで深みにはまっていくか分かりませんからね。



1992年9月、自衛隊は初めてPKOに参加します

武器の使用は内閣法制局の審査と国会での審議を経て

身を守るための最小限度に留めることになりました





3.周辺事態安全確保法


自衛隊の海外派遣に踏み出した日本に

アメリカは新たな軍事的支援を求めます


きっかけとなったのは1993年北朝鮮が日本海に向け

弾道ミサイルノドンを発射したことでした

そのときアメリカは北朝鮮に対し軍事行動も辞さない構えを見せました


今回私たちが入手した国防総省の機密文書の中に

この機を捉えて日本も自らの戦略に組み込もうという狙いが記されていました



 北朝鮮の情報は日本を刺激することができる

 ノドンミサイルの技術的な情報だけでなく北朝鮮の核開発に関する極秘情報の提供を申し出ると防衛庁幹部は色めきたった
 
アメリカ軍に協力しようという気持ちをかき立てたようだ
 
 最終的に日本周辺だけでなくさらに広い地域でアメリカ軍の活動を自衛隊に支援させるため、われわれは努力を重ねる必要がある



この報告書を作成したのはフラク・ウィズナー国防次官

現在、ニューヨークの法律事務所に勤めているウィズナー氏です

当時、防衛庁や外務省の幹部と北朝鮮をめぐる協議を重ねていたといいます



ウィズナー 日本は状況に応じて進化する必要がありました。同盟国としてアメリカと共に強さがあることを明確にし、自衛にとどまらない能力を示す必要がありました。まさにそれがわれわれが日本に望んでいたことです。



アメリカはこのとき

日本の憲法の枠の中でどれだけの協力が得られると考えていたのか

当時の在日アメリカ軍司令官が取材に応じました


1993年から3年間司令官を務めたリチャード・マイヤーズ氏です

その後、アメリカ軍トップ統合参謀本部議長を務め、

アメリカの軍事戦略を知り尽くした人物です


マイヤーズ氏は憲法9条があっても

自衛隊にできることはあると考えていたといいます



マイヤーズ 北朝鮮での戦争に備え、日米共同の作戦計画をたてるため何ができるかを知る必要がありました。
 (憲法9条は)確かにわれわれが作戦を立てる上で障害でした。ただ問題は憲法自体にではなく憲法解釈の仕方にあると捉えていました。憲法の枠組みの中でどのような選択をするかという問題なのです。
 自衛隊は非常に能力が高く多くのことができます。それをやるかどうかは日本次第なのです。



アメリカが日本周辺で軍事行動に入った場合

何ができるのか政府は検討を始めます

焦点の一つとなったのが

憲法解釈上許されていない集団的自衛権の問題でした


日本が直接攻撃を受けない中でアメリカが行う軍事行動、

それを支援することは

例え輸送や補給でもアメリカの武力行使と一体化したと見なされ

集団的自衛権の行使につながる恐れがあるというのです


憲法に抵触しない支援は可能なのか

当時、政府内の検討に参加した人物が取材に応じました

当時防衛庁運用局長だった柳澤協二さんでした


外務省や内閣法制局と協議を重ね

憲法の枠の中での支援の在り方を考えたといいます


そして、1999年に成立したのが周辺事態安全確保法です。

日本周辺で軍事行動を行うアメリカ軍に

どのような支援ができるのか定められました


そこに盛り込まれたのが後方地域という考え方です

後方地域とは自衛隊の活動機関を通じて

戦闘行為が行われることがないと認められる地域のことです

この地域での支援ならば武力行使と一体化せず

集団的自衛権の行使につながらないとしたのです



柳澤 今の憲法の中でのギリギリのラインということなんだろうなと思います。
  日本自身が日本の国の在り方としてどういう線の引き方をするかということを考えた結果ということですね。



柳澤さんは法案がまとまった後

アメリカ国防総省の幹部と交わした会話を覚えています

法案では集団的自衛権の行使には踏み込みませんでしたが

相手からは意外な言葉が返ってきたといいます



柳澤 とにかくみんなこれで満足してると。ただグラスに水が半分しか入っていないけれども、それが目標であったのでわれわれはみんな満足していると、そういう言い方をする人がいましたねで、そのグラスに半分しか入ってないという意味はつまり、憲法解釈を見なおして集団的自衛権には踏み込んでいないけれども日本のやるべきことがはっきり分かったということですね。
 アメリカは肩を並べて前線に立ってくれということを希望したのではなくて、日本がやれることをきっちり決めてくれと、やれる範囲を決めてくれれば、あとは、足りないところは自分たちがやるんだと、そういうスタンスがあったように思いますね。






4.イラク派遣、統合幕僚長 先崎一



自衛隊の海外での活動を模索した90年代の日本

2000年代に入ると

実際に戦闘が行われている国で活動するまでになっています

大量破壊兵器を保有しているなどとしてイラクを攻撃したアメリカは

各国に地上部隊の派遣を求めます


この戦争が続く中、

2004年1月政府は日本独自の判断で復興支援を行うとして

イラクへ陸上自衛隊を派遣したのです


このとき派遣の根拠となったのが非戦闘地域という考え方です

非戦闘地域とは先ほどご覧いただきました

後方地域と同じように

活動期間を通じて戦闘行為がないと認められる地域とされています

同じ国の中でもこうした地域での活動なら

アメリカの武力行使とは一体化せず憲法にも抵触しないというわけです


この考え方に従って

自衛隊は首都バグダッドから離れた地域で慎重に活動を進めました

それでも自衛隊の宿営地には何度も迫撃砲弾が打ち込まれるなど

危険の中での活動になりました

日米同盟の強化も意識して行われたというイラク派遣

今回私たちは当時の自衛隊トップの日記を入手しました


そこにつづられた現実からは

他国の戦争と、間近で向き合う苦悩が浮かび上がってきます

およそ4年に及ぶ自衛隊トップの日記

イラク派遣から終了までの日々がつづられていました


派遣の半年前、2003年7月16日の日記です
アメリカのサポートはアメリカ軍と一体と見なされ敵と見なされる恐れあり

対米支援のニーズは陸上自衛隊のやろうとしていることとギャップあり


日記をつけていたのはイラク派遣当時陸上幕僚長、

統合幕僚長を歴任した先崎一さんです

隊員の安全を守るためには

アメリカ軍の活動と一線を画す必要があると繰り返し記していました

大規模戦闘が終結したとされていたイラク、

しかしバグダッド周辺の治安状況は悪化の一途をたどっていました

アメリカ軍などを狙った武装勢力などによるテロが頻発していたのです


8月19日
国連本部爆破事案、無差別化、泥沼化


アメリカ軍がテロの標的となるたびに新聞記事が貼られ

不安な胸の内が吐露されていました


9月22日
アメリカ軍と一体化 不可避 ターゲット化 アメリカ軍への支援 占領軍と見なされる 

10月10日
アメリカから言われたからやる 避けたい


統合幕僚長を退いて7年、

現在は会社顧問を務めている先崎一さんです

自らの経験が役に立つならばと今回はじめて取材に応じました

当時、政府内には

目に見える形でアメリカ軍を支援するべきだという意見もありました


一方で先崎さんは

自衛隊の活動はアメリカ軍と離れた地方都市でやるべきだと政府に訴えたといいます



先崎 当初あったんですよ、日本にバグダッド周辺で米軍あたりの給水だとか、あるいは輸送とかやってくれんかと。そういうよその国と離れて自分たちの独自性っちゅうか主体性を発揮できる場所がいいだろうと。従って、ここ(サマーワ)を何とか選んでほしいというふうなことでわれわれも具申し、ほんでもって政治に決断してもらったと。



先崎さんはアメリカ軍にではなく

地域の人たちに給水や支援を行いたいと考えていました


この前の年に参加した

東ティモールでのPKOで

日本独自の国際貢献ができると実感したからです



先崎 地域の人から第一声で言われたのは「日本の自衛隊さんはよその国のPKOが来てる部隊と違う」と。「どこが違うんですか」と言ったら「いやいや、よそのところの軍隊はわれわれはPKO部隊だと、だから工事の邪魔だからみんなにどけどけと、そういうような格好の仕事のやり方をする、日本の自衛隊は地域の人たちに明日こういうふうな工事でやります、従って相当やっぱり騒音も出てくるかもしれませんけど理解してくださいと仁義をきってPKO活動をやる」と。
 そういう国内でやったことと同じように国際貢献をやればそれなりに理解してもらえるというふうなことをを身をもって体験した。


2004年1月、

イラク南部のサマーワで復興支援活動を始めた陸上自衛隊



「われわれは人道復興支援部隊である。
治安維持部隊ではない。一致団結して任務を完遂しよう。」
 
 

しかし、アメリカ軍と一線を画したはずの自衛隊でさえ

武装勢力の攻撃の対象とされていきます



2004年3月3日 
サマーワからロケットランチャーを持った現地人が日本の部隊を狙っているとの情報 A警備発令

2004年4月6日
陸上自衛隊宿営地 ターゲットのテロ予告


そしてこうした懸念は現実のものとなります


2004年4月8日
今朝4時45分充電中の携帯電話が鳴った まさか ロケット弾らしい破裂音3初確認



相次ぐ攻撃を受けて

国会ではイラクに非戦闘地域はあるのか論戦が交わされました


陸上自衛隊がイラクで活動した期間は2年半

派遣部隊は次々と危険な事態に直面します

武装された集団に取り囲まれたこともありました



先崎 40、50人くらいだったんですかね、何だと。で、われわれの車が全部囲まれて向こうだって銃を持った人間がおりまして言いがかりをつけてくる。ミラーをやられたりですねえ、そういうふうな被害を受けたり、ほいで警備がこう銃を構えたところに唾をかけられたり。お互いに至近距離内で一触即発の状態で、まさに指に引き金をかける、そういうふうな状態になった。



このとき隊員が引き金を引くことはありませんでした

しかし一歩間違えれば

イラクとの関係悪化を招きかねない事態だったと先崎さんは振り返ります



先崎 まかり間違って武器使用のそういうところに発展するような事態があれば、それはもう裏切り行為といいますか、そうするともう将来に禍根を残す、日本対イラクというふうな枠の中でも大きな禍根を残す、そういうようなことにつながっていった危険性だってあったんじゃないかなと。わずか1発の弾でですね、いうふうなことまでやっぱり考えましたですね。



イラクでアメリカ軍と一線を画すことを模索した陸上自衛隊

今、アメリカ軍との連携は深まり海外派遣も続いています

1人も犠牲者を出すことなく終えたイラク派遣

部隊に撤収命令が出た日、

先崎さんの日記に書かれていたのは安堵の言葉でした




私の後ろにありますのが自衛隊の殉職者慰霊碑です

ここには訓練や災害派遣の任務の最中に亡くなった隊員

1831人の名前を記したプレートが収められています

ただ、その中には戦闘によって亡くなった隊員は一人もいません

このことは発足から60年、

自衛隊が一度も戦闘行為を行わなかったことを意味します

そして、それがこの国の戦後の歩みでもありました

日本の周辺では今、

北朝鮮が核やミサイルの開発を続け

中国が軍事力を強化しています

そして日本に軍事的役割の拡大を求めてきたアメリカ、

その中から日本と周辺諸国との緊張の高まりを懸念する声も出てきています

こうした変化の中

急速に高まる集団的自衛権の議論、

そして憲法9条をめぐる議論はどこへ向かうのか

私たちは今、この国の形が問われる大きな岐路に立っています












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2013年8月7日水曜日

終わりなき被曝との闘い~被曝者と医師の68年~NHKスペシャル




原爆投下から68年

今もなお、原子爆弾が被曝者たちを苦しめ続けている



骨髄異形成症候群、MDS

原爆炸裂の瞬間に放たれた放射線が

ヒトの細胞の中にある染色体に無数の傷を残したものが原因で

今、被曝者たちの中でMDSを発症する方が増えている

症状が進むと免疫機能が下がり死に至る病



「くるものがきたなあっていう感じでした。

原爆に遭ったものっていうのは苦しみに本当、終わりがないわけです。

いつ、何が起きるか」



被曝直後の急性障害

10年後に猛威をふるった白血病

1970年ごろから増えていったがん

そして今、MDS



「放射線の傷という時限爆弾が仕掛けられた」



「1発の時限爆弾にとどまらない、

二つ目、三つ目の時限爆弾も持ち合わせている」



長年、被曝者と向き合ってきた医師たち

今、世界に向けて終わることのない原爆の脅威を訴えています



「医師の立場で言えば核兵器は最悪の疾病です。

この苦しみを世界からなくすには核兵器の廃絶しかありません」
(長崎原爆病院・院長、朝長万左男)




長年、被曝者の治療にあたってきた広島大学病院

4歳のとき爆心地から2.5キロメートルで被曝した

竹嶋智恵美さん72歳

これまで大きな病気をしたことはありませんでしたが

4カ月前の検査で白血球の異常が見つかりました



医師 骨髄検査の結果、骨髄異形成症候群(MDS)という病気になっているということが分かりました。

竹嶋 はい。

医師 60歳を超えているっていうことと、それと放射線、広島の原爆被曝を受けたというところで、その影響というのがあったんじゃないかなというふうに推測されます。
 悪くなることがあるんではなくて、悪くなると思います。

竹嶋 ああ、ある? 思う(笑)・・・なるんじゃなくて? (目を押さえる)

医師 厳しい言い方になるんだけど・・・。

竹嶋 ええ。

医師 今治す手段というのは骨髄移植しかありません。

竹嶋 ああ、そうですか。まあ、それはできませんよね? 私の場合にはね? もう歳が歳ですからね?

医師 竹嶋さんの場合には、安全にはできないと思います。

竹嶋 ああ、そうですか。



MDSには、まだ根本的な治療がない

抗がん剤を使って症状を抑えていくことになった








「まあ、61年も、あの・・・原子爆弾の、私の体の中に巣食っていて、

そして表に出てきたのかと思って私はびっくりしたんです。

このようにして核兵器の恐ろしさは本当にとどまることのないような状態なんですね。」
(被曝者、吉田孝子さん。MDSで亡くなる1カ月前、2008年の映像)









「泣いてる場合じゃないわけですよ。

もちろん、患者さんが亡くなると悔しさもありね、泣く医者もいるんだけれども、

やっぱり、そこから次のステップに、自分が研究をして、なんか新しい治療法を編み出したい。」







「原爆の放射線の影響が半永久的というか、

一人一人の被曝者の方で言えば生涯続く。

生涯持続という大きな運命を背負っているっていう被曝者の方々の現状には、

やっぱり心が痛みますね。」





「闘わざるを得ないわけよね、被曝者の方は自分の白血病という病気に。

不治の病ということを知りながら闘っていくわけでしょ。

その闘いは医者の闘いでもあるわけでね、やっぱり一緒に闘うわけですよ。

われわれがギブアップして何もしないということはあり得ないわけで。

だから、医者の仕事としての根本がそこにあるんじゃないかと思いますね。」








「結婚して10年たったころからいろいろと病気になりだして

今だから言えるんだけど

2人でもう死んじゃおうかと思うほど苦しいときもありましたけれども

それを乗り越えて、今こうしていられるっていうことは本当に感謝に堪えません。

蒲田先生は、ね、全てご存じです。

ねえ、大変なときもあったもんね。」





「これは終わることないですよね、もうそれは。

私の生きている時代で終わるというものでもないし

まだまだどんな形で・・・

問題が出てくる可能性があると思いますね。」







先日、クローズアップ現代で

「はだしのゲン」が世界に広がりつつある

という内容が放送され、このブログでも文字起こしをしました。


「はだしのゲン」の、あのショッキングな原爆投下直後の様子

そして、この番組で紹介されたことも

原爆被害の、ほんの一端でしかないんですよね。


原子爆弾は被曝者の人生に覆いかぶさり

暗い影を落とし続けている。


でも、その中で

被曝者に寄り添い、戦い続けている医師たちの存在は

大きな支えになっているんではないかと思います。



今回、文字起こしできたのはほんの一部です。

再放送が8月10日土曜日の午前1時35分からあります。

ぜひ番組を見ていただきたいなと思います。






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世界をかける「はだしのゲン」 クローズアップ現代 文字起こし


2013年7月31日水曜日

世界をかける「はだしのゲン」 クローズアップ現代 文字起こし

球界を代表するスラッガー新井貴浩選手

そして人気歌手、ゆずも

ある漫画に熱中しました


原爆で家族を亡くしながらも

広島で力強く生きる少年を描いた「はだしのゲン」です


発行部数は国内外で1000万部以上

20カ国で出版され

連載から40年たった今も世界中でファンを増やし続けています

今月には核開発問題に揺れるイランでペルシャ語版が発売されました


イラン人女性 とっても面白かった。一気に読み終えちゃったわ。


テロとの戦いを掲げイラクに派兵したアメリカ

ゲンの物語は帰還兵の心も揺さぶっています


元アメリカ軍兵士 戦争に行く前にこの物語を読むべきだった


世界をかける「はだしのゲン」

その魅力に迫ります



国谷 こんばんは、クローズアップ現代です。
 「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんは6歳のとき1.2キロの所で被曝し、もしコンクリートのかべに寄り添っていなければ自分は黒焦げになって死んでいただろうと書いています。
 原爆地獄の中を必死で逃げ抜き、母親と再会することができましたが、父親、姉、弟を亡くし、自らもやけどを負いました。そのときの体験を、そのまま主人公に投影して創作したのが「はだしのゲン」です。原爆投下直後の広島の惨状、それとともに貧困や差別に苦しみながら、戦後の過酷な社会の中を力強く生き抜く少年の姿を描いたものです。戦争、そして原爆に対する怒りに突き動かされて創作された「はだしのゲン」。その中沢さんは、73歳で去年の暮れ亡くなりましたが、最後まで使命感を持って子どもたちに伝える活動を続けました。その中沢さんの思いに応えるかのように、今「はだしのゲン」は世界各国で読者を広げています。「はだしのゲン」が翻訳、出版された国々は20カ国に及びます。

(アメリカ、ロシア、フランス、スペイン、ドイツ、オランダ、ポーランド、韓国、タイ、イラン、インドネシア、ブラジル、フィンランド、トルコ、ウクライナ、イタリア、クロアチア、ノルウェー、スウェーデン、パキスタン)

国谷 ご覧のように、ロシアやアメリカといった核保有国、お隣韓国などのアジアの国々、そしてヨーロッパ各国でも翻訳されています。その多くが「はだしのゲン」を読んで感動した日本人や、海外の人々によるボランティアで翻訳されたものです。
 なぜ今「はだしのゲン」が国境を越えて人々の心を捉えているのか、まず初めに、これまで明らかにされてこなかった「はだしのゲン」連載をめぐる中沢さんの苦闘です。





1.試行錯誤の連載


「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんの妻、ミサヨさん。

中沢さんが亡くなって半年あまり

ミサヨさんは作品に懸けた夫の思いを初めて語りました


中沢ミサヨさん 「俺はやらなくちゃいけん」ていうか「漫画の武器を使って子どもたちに知らせる」「原爆に対する知ったこと、思ったこと、全部「はだしのゲン」に託してやるんだ」と。



連載のチャンスを得たのは昭和48年

「マジンガーZ」や「ど根性ガエル」などの人気漫画で急速に部数を伸ばしていた

「少年ジャンプ」がその舞台でした


中沢さんがこだわったのは

被曝直後の悲惨な光景をありのままに表現することでした

爆風で全身に突き刺さるガラス

熱線で皮膚が垂れ下がった人々

建物の下敷きになり火に巻かれて亡くなるゲンの家族

父、姉、弟を失った中沢さんの体験を基に描きました



中沢ミサヨさん やっぱり体験者じゃないと分からないじゃない。だから俺が見た目で思ったことをやると。やっぱり、これ使命感ていうかね、こう、誰かが背中で「お前、描け、描け、と言ってるような感じがする」って言ってましたからね。



しかし「はだしのゲン」は苦戦を強いられます

読者の人気投票を基に決められる掲載順

連載当初の4番目から

2カ月後には最下位寸前にまで落ち込みました


当時の連載の場面

(ゲンが自分の髪を引っ張るとゴソッと抜け落ちる描写)

原爆症の死の恐怖に怯えるゲン

生き残った母親や生まれたばかりの妹のために

あてもなく食べ物を探すゲン

孤独で寂しい場面が続いていました


当時、編集者として中沢さんの下に通っていた山路則隆さん

読者の厳しい反応を中沢さんに伝えていました



山路 一方のほうでは「いつまで続けるんだ」とか「もう、こんな暗い作品はもう真っ平」だとかね、そういう反応はもちろんあったんですよ。でもリアルに描きたい、でも本当のこと描きたいという、その相克はずーっとあったんだと思います。



将来を担う子どもたちにこそ

原爆の本当の姿を伝えたかった中沢さん

少年誌での低迷に悩み続ける姿を

ミサヨさんは間近で見ていました



中沢ミサヨさん 家族が死んだ後、その次のストーリーが面白くないんですよ、全然。悲しいばっかりで、重くて。「つまんないよ、これ」って言ったらねえ、本人もそう思ってるって。それじゃあ駄目だから、とにかく面白く持っていくにはどうしたらいいか、そればっかりですね。



どうすれば読者を引きつけられるのか

試行錯誤の末に思いついたのは

新たなキャラクターを登場させることでした

建物の下敷きになった弟とそっくりの隆太です

原爆で孤児となり

食べ物を盗んだ隆太と偶然出会ったゲン

隆太を助けたことで仲間となり

次第に明るさを取り戻していきます


中沢ミサヨさん 孤児の仲間、みんな生きる力を持っているじゃないですか。一生懸命生きているじゃないですか。「もう、すーごい面白いわ、ワクワクしちゃうから次読みたくなっちゃう」って言ったら、よしって感じで、もう次進むんですよね。


原爆の病気がうつるという偏見にも負けないゲンたち

間借りした家でいじめに遭っても

それをはねのけていきます


仲間を得たゲンが

困難に打ち勝ち、成長していく物語が

読者の心をつかんでいったのです



山路 ゲンは自分一人のために、自分勝手に悲惨な状況、悲惨な環境でそれを嘆きながら、怒りながら生きているわけではなくって、人の面倒を見たりとか、助けたりとかすることでもって、そういった子どもの成長物語にしたいんだと。で、それを読者が一緒になって漫画を読むことによって疑似体験できるわけなんで。



中沢ミサヨさん 原爆で苦しんでたけど、だけど生きていくじゃないですか、精いっぱい。だから、その生きる力、負けるなよっていうね、あれが言いたいんでしょう、実際、うん。どんなことが遭っても生きていけよというさ。それがテーマなんですよね。





国谷 連載中、中沢さんは悪夢にうなされながら被爆の惨状について描き続けた、と妻のミサヨさんは語ってくれました。作品は、主人公のゲンが中学校を卒業し、画家になるため上京する場面で終わっています。中沢さんは、ゲンを通して東京での被爆者の苦悩について描きたいという構想を練っていましたが、白内障に悩まされ作品を描き上げることはできませんでした。
 しかし力強い作品に感動した人々から、海外の人々にも読んでほしい、翻訳させてほしいという申し入れが相次いだのです。中沢さんは世界中の子供達に読んでほしい、と著作権に対する対価を求めることなく快く応じ、作品は主にボランティアの手によって20カ国語で翻訳されたのです。
 今「はだしのゲン」のメッセージは被爆の惨状だけにとどまらず、世界が抱える問題とも重ね合わせて新たな共感を得ています。





2.世界をかける「はだしのゲン」



核開発問題に揺れるイラン

今月「はだしのゲン」のペルシャ語版が出版されました

原爆をありのままに描いたストーリーに

注目が集まり始めています


イラン人女性A とっても面白かった。一気に読み終えちゃったわ。原爆があんなにひどいものだなんて。


翻訳したのは広島に留学しているイラン人のサラ・アベディニさん

万が一にもイランが核兵器を開発することがあってはならない

サラさんは「はだしのゲン」を祖国の人たちに読んでもらいたいと

ボランティアで翻訳を買って出ました



サラ・アベディニさん 体の皮がむけたりとか、髪がそのまま抜けちゃったりとか、そこまでのことは「はだしのゲン」を読むまでは知らなかったんですよ。この悲しい気持ちを、できればイラン人にも伝えるんだったらいい本になるんじゃないかと思って。



この日、イランの書店では

「はだしのゲン」の読書会が開かれていました

核兵器とどう向き合うべきか

イランで本音の議論が始まりました



イラン人女性B 私だったらどうしただろうって思ったわ。家族が生きながら焼け死ぬところは心が痛かった。想像するだけで本当に大変だわ。

イラン人女性C それでも世界から核兵器をなくすのは理想にすぎないと思う。戦争はなくならないから。特に中東ではさまざまな紛争が起こるし。私たち市民が核兵器をなくすことができるのかしら。

イラン人女性D 核兵器をなくす方法があるとすれば、それは私たちが知識を身に付けることだと思う。核戦争や放射線などの恐ろしさをみんなに知ってもらうべきだわ。



原爆を投下したアメリカでも

「はだしのゲン」は共感を呼んでいます

「はだしのゲン」が読まれている学校は

小学校から大学まで

2000以上に上ります



レナード・ライファス教授 この漫画は本当にパワフルです。中沢さんの作品はさまざまな感情をかき立てるのです。



「はだしのゲン」を題材にしているレナード・ライファス教授

これまでは歴史の一コマとしか受け止められてこなかった原爆に

学生たちが興味を持つようになったといいます



女子生徒 少し前に歴史のクラスで原爆について学んだけど、今回のほうがより身近に感じることができたわ。

男子生徒 漫画の絵が生々しかった。アメリカ人がこれを読むのは重要だと思う。



「はだしのゲン」を過去のことではなく

現代の戦争と重ねている人がいました

カルロス・グランデさんです

3年前まで陸軍の兵士として

イラク戦争の最前線で戦っていたカルロスさん

同じ部隊にいた5人の仲間を失いました


カルロス・グランデさん 彼らが死んだと聞いてショックだったよ。そんなはずはない、とかすかな望みを持ち続けた。でも本当に死んでいたんだ。


当初は自分の苦しみにばかりとらわれていたというカルロスさん

しかし「はだしのゲン」に出会い考えを変えました

最も衝撃を受けたのは

両親の死に直面する孤児たちの姿でした

カルロスさんは戦場で親を失った多くの子どもたちと出会っていました

「はだしのゲン」で描かれた

孤児たちの苦労や悲しみに触れ

イラクの子どもたちの心情が

初めて分かったと言います




カルロス・グランデさん ゲンにはすべてが描かれている。実際の子どもたちの気持ちが分かる、力のある物語だよ。




自分が参加した戦争は正しかったのか

カルロスさんは疑問を持ち始めています




カルロス・グランデさん 戦争に行く前に読むべきだった。戦争が何をもたらすのか、世界中の人はこのマンガを読んで知るべきだ。





3.演出家 木島恭と「はだしのゲン」


国谷 スタジオには「はだしのゲン」のミュージカルの脚本、演出を手掛けられ、そして国内だけでなく、海外での公演を続けていらっしゃいます、演出家の木島恭さんにお越しいただいています。
 今のイラクから帰還したアメリカ兵のカルロスさんが「戦争に行く前に読んでおけば良かった」という言葉が印象的だったんですが、「はだしのゲン」20カ国に出版、翻訳されて、そのうちは、この10年間に半分以上が出版されているという、世界への広がり方を、どう捉えていらっしゃいますか。

 木島 そうですね、先ほどの女性の話にもありましたが、戦争という問題と核の問題が非常に身近なところに あるんだなあということを感じますね。第2次世界対戦終わって随分たちますけど、そういう、時間ではなくて、今まさに近い状態に戦争なり、核という問題を、みんな世界が抱えているんだという情勢が一つは影響しているんではないかというふうに思いますね。

国谷 海外ではアメリカを初め、ロシアやポーランドなどでも公演されてますけど、どういう反応が多かったですか。

木島 そうですね、アメリカは戦争を集結した平和の爆弾という教育が行われていまして、ただ被害の実態についてはあまり伝えられていないんですね、意図的に伏せてるということもあると思うんですけど。ですから、原爆がこんなに悲惨な状態を生むんだということを目の当たりにするのがショックだったという、ちょっと認識が変わったという意見が結構ニューヨークでは多かったと思います。
 で、ポーランドはアウシュヴィッツを抱えてますから、ナチス・ドイツの問題のあれで。幸せな家族が突然引き裂かれて、不幸というか、災難というか、そういう弾圧なり、いろんなものが起きてくる ことの、彼ら自身が抱えた問題と、ゲンが被曝によって受ける差別だったり、本当に幸せな家族が崩壊させられていく人たちの心というか、気持ちというか、そういったものがとても共感を呼んだんではないかというふうに思いますね。そういう意見、とても多かったです。
 それから、ロシアはチェルノブイリの事故の被害者の方たちが観劇にいらっしゃいまして、放射能の被害を受けた後に、自分たちが現実に抱えている問題、それが「はだしのゲン」の中でも起きてくる。伝染病という言い方はもうこの時代ではないでしょうけども、差別という形につながっていったり、自分たちが帰りたいと思ってるところにも帰れない、日々、放射線を計りながら食べ物を食べなければならないということが決して原爆という放射能の問題ではなくて、現実に自分たちが抱えている放射能とどう対応して生きていくかということと結びつけて捉えられる方が多かったみたいですね。

国谷 原爆に対する強い怒りに突き動かされて創作された、この「はだしのゲン」ですけども、最も中沢さんが伝えたかったのは生き抜くことだと。

木島 はい、そう思いますね。もちろん被害の実態、戦争というものが何を起こしたのかというのは前半部分では強く語られるんですけども、実際、人は強く生きていかなければいけませんから、いろんなことがありながらも生き抜く力というのかな、生きようとする努力、エネルギーみたいなものをゲンを通して感じてほしかったんだろうと思います。ただ、生き抜くというと、とても個人的なことだったりしますから、じゃあ俺が生き残るためには人を踏みつけにしていいんだということにもなりかねないので、そういうことではなく、助け合って、同じように力を尽くして、支え合って生きるということが中沢さんにとってはとても大事だったんだろうと思います。それは、自分は被爆者で原爆という体験を持ちますけれども、同じように日本中の人たちが戦争という被害を受け、同じように孤児になり、同じように家族を失った人たちがたくさんいたでしょうから、本当に一つになって、みんな同じ思いだろうというような支え合い方というものは、中沢さんの中には強くあったんではないかと思いますね。

国谷 そういう中沢さんの思いが世界の人々にも共感を呼んでいるということもあって、ボランティアとしてぜひ海外に伝えたいという、ほとんどボランティアの方が出版を手助けしているって言うところが、やっぱりすごいですねえ。

木島 はい、それは一つに漫画という媒体の力があると思うんですよね。漫画というのはコマとコマでつながりますから、間の部分をどうしても読者の側が埋めなきゃいけない、そこに参加せざるを得ない。これは演劇もライブですから、同じように観客を必要とするんですけれども。40年前に描かれた漫画ですら今読み手がその中に入らざるを得ない。そうすると、もらった感動ではなくて、自分自身のアイデンティティみたいなものをそこで試されてしまうっていうのかな。で、そこで受けた感動は漫画からもらうんじゃなくて、自分の感動なんですね。それはやっぱり同じようにみんなに分かってほしい、みんなに伝えたいという思いが自分の国の言葉に訳して、みんなに話したいということにつながってる大きな要素ではないかと思いますけどね。

国谷 自分の体験になっていくんですね、そのコマを埋める作業が。

木島 はい、そうだと思います。疑似体験ですけど、明らかにそこで自分自身が積極的に参加するという形でこの作品が生き続けていくという大きな要素になってるんではないかと思いますね。

国谷 中沢さん、本当に最後まで若い人たちに伝えたい、子どもたちに伝えたいという思いを強くお持ちで、妻のミサヨさんがおっしゃってるんですけれども「とにかく未来を背負う子どもたち、戦争体験を知らない、戦争体験を知らないから世の中が戦争の方に向かっていっても分からないんではないか、そのためにも「はだしのゲン」を読めばちょっと待てよ、小さいころ読んだことを思い出して、もう一回大人になって読んでみようという気持ちになるんではないか、そのために子どもたちに読んでもらいたい」っていう思いだったそうです。

木島 はい。だんだんほっとけばなくなっていくのが時代ですから、本当に入り口でいいので、こういうことをきっかけにこういうことがあったんだよ、そっからじゃあ、自分は何を知って、さっき「止められるとすれば知識だけ」だとおっしゃってましたけど、知ることが始まりですから、そういうふうなきっかけになれる作品になればいいなあと思いますね。演劇も漫画も、あらゆるメディアが、知ることから始めていただければ先へつながっていくんじゃないかというふうに思います。

国谷 多彩な問題を投げかけていらっしゃいますけども、その漫画を通して議論の場といいますか、話し合える舞台のきっかけになるといいですね。

木島 はい、そう思います。

国谷 きょうはどうもありがとうございました。

木島 ありがとうございました。






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